想田和弘監督作品・観察映画第3弾・第4弾

演劇1 演劇2

Director's Note 想田和弘監督から
Review 内田樹さんによる映画評

内田樹(凱風館館長)

 『演劇1』『演劇2』、まとめて5時間42分を三晩かけて見た。たいへんに面白かった。何がどう面白かったのか、手持ちの映画批評の用語ではうまく表現できない。そういう種類の経験だった。
 私は何であれ「イノベーティヴなもの」に対しては基本的に好意的な人間である。自分がそこで経験したことを記述したり、人に説明したりするためには、新しい概念と新しい言葉を自分でつくり出さなければならないという切迫を愛するのである。まだ見終わったばかりの、興奮さめやらぬ状態で、この映画のどこが私に切迫してきたのか、それについて書いてみたい。
 この映画の「成功」(と言ってよいと思う)の理由は二つある。
 一つは「観察映画」という独特のドキュメンタリーの方法を貫いた想田和弘監督のクリエーターとしての破格であり、もう一つは素材に選ばれた平田オリザという世界的な戯曲家・演出家その人の破格である。この二つの「破格」が出会うことで「ケミストリー」が生み出された。二人がそれぞれのしかたで発信している、微細な歪音がぶつかりあい、周波数を増幅し、倍音をつくり出し、ある種の「音楽」を作り出している。私はそんな印象を受けた。
 私は想田監督にはお会いしたことがないが、平田オリザさんには何度かお会いしたことがある。この映画にも出てくる民主党参議院議員の松井孝治さんにご紹介頂いたのである。
 平田さんからは、笑顔を絶やさず、ゆっくり言葉を選びながら話す知的で温和な人という印象を受けた。だが、知的で温和で物静かな人物が、劇作家として世界的なポピュラリティを獲得し、内閣参与になって総理大臣のスピーチライターをするというようなことはふつうは起こらない。だから、この笑顔と違うところに、これとは「別の顔」を隠しているのだろうと思った。しかし、何度かお会いしたが、平田さんは「別の顔」を見せない。つねに笑顔である。
 想田監督のこの映画を見て、「平田オリザの笑顔」の深みが少し分ったような気になった。
それは平田さんがスタニスラフスキー・システムをきびしい口調で批判するときの、抑制の外れ方が私のセンサーに「ヒット」したからである。この映画の中で、平田さんがこれほど否定的感情を剥き出しにした場面は他にない。

 スタニスラフスキー・システムはいわゆる「新劇的」演技の基本をなす演劇理論である。自分が演じる役柄について徹底的なリサーチを行い、その役柄を俳優が生身に引き受け、舞台上では、その人物がその劇的状況に投じられた場合に、どのようにふるまうか、それを擬似的に再現しようとするのである。「役になりきる」演技術である。古くはマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、近くはロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノら、ハリウッドきっての「名優」たちがこのメソッドの信奉者だった。
 平田さんはそのメソッドをあっさりと退ける。俳優の内側に「自然にわき上がる感情」などはとりあえずどうでもよろしい。俳優に要求されるのは、演出家の指示通り、目線を何センチずらす、ある単語と次の単語の間をコンマ何秒縮めるといった純粋に技術的なことに限定される。俳優は演出家の意のままに口を開き、閉じ、手を上げ下ろしする「ロボット」でいい。現に、その平田さんの過激なアイディアは「ロボット演劇」というかたちで実現してしまう。

 映画冒頭の『ヤルタ会談』の稽古から最後の『砂と兵隊』のフランス公演に至るまで、平田さんはすべての演出シーンでついに一度も登場人物の「内面」に言及しない。これが想田監督の編集上の作為でないなら、この「内面を持つこと」あるいは「自然発生的な情緒に身を委ねること」、さらに言えば「深層が露出すること」へのアレルギーの症状そのもののうちに、私たちは「平田オリザの深層」が露出するのを見ることになる。
 5時間にわたって映画の中の平田さんの笑顔を見続けているうちに、私はこの「はりついたような」笑顔が実際には状況によって、かなり微妙な変化があることに気づくようになった。「平田笑顔の見巧者」になったのである。
 平田さんだって生身の人間である。ときには「むかっ」とすることもあるし、「いらっ」とすることもあるし、「コノヤロ」と憤りがこみ上げるときもある(と思う。本人に訊いたら「ありません」とあの笑顔で答えると思うけれど)。そういうとき、マイナスの感情が湧出してきて、笑顔が維持しがたくなると、たぶん平田さんの中では小さくアラームが鳴るのだ。すると、平田さんは「自己抑制」のアクセルをぐいと踏み込む。すると、ふたたび笑顔が戻って来る。この切り替えの速さに私は驚嘆した。
 見始めて3時間目くらいから、私はF1レーサーの微妙なハンドリングを見つめるように、平田オリザの「笑顔の微細な変化」に見入ってしまった。彼が画面に出てこない時間帯の「空虚さ」に耐えられないほど、あの笑顔に魅了されてしまったのである。そして、笑顔が画面に拡がると、それのわずかな変化も見落とすまいと緊張した。「あ、いま一瞬『素』になって、0.3秒で笑顔に戻った・・・」というような、ほとんど平田オリザ演出と同じような時間の区切りでじっと画面を見つめた。
 なるほど。平田さんの人間観察の最大の資源は「自分自身」なのだとそのときわかった。わずか0.3秒の間のあるなしで、一つの台詞の意味が反転することがありうるということを、まさに平田さんは彼自身の、現実の世界での他者との対話のうちでこれ以上ないほど雄弁に示していたのである。
 たぶん平田オリザさんは自分ほど「過激なこと」を好む人間を他に知らないくらいに本性から過激な人なのだと思う(なにしろ16歳で自転車で世界一周に出かけてしまうのである)。あまりに過激なので、おのれの過激さを「こうです」と提示するための既存の方法を思いつかなかった。そして、論理の経済の赴くところ、自分の過激さを完全に抑制することができるくらいに過激という逆説的な形態を選択したのである。のだと思う。たぶん。
 こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。
 かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。だから、過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回るようになる。でも、想像すればわかるけれど、みんながそういう演技をする芝居に私たちはたぶんすぐに飽きてしまう。

 しかし、ほんとうに法外な思念や感情は、人々から「ああ、『あれ』ですね」と簡単に了解されるような既存の度量衡で考量されることを拒む。そんなふうに「たかをくくった」かたちで了解され、それに基づいて慰撫されたり、気味悪がられたり、気を遣われたりするくらいなら、いっそ「ないもの」と思われた方がまだましだ。ほんとうに法外な思念や感情を抱く人はたぶんそういうふうに考えるのではあるまいか。
 私自身はどんな意味でも「法外」さとは無縁な人間なので、これはあくまで想像であるが、平田オリザさんが舞台で造形しようとしているのは、「いかなる既存の過激さの表象にも回収されない種類の過激さ」ではないかと私は思う。
 もちろん登場人物の全員がそうであるわけではない。でも、外形的には穏やかで、内省的に見える人たちの中に、あるいは定型的なふるまいを繰り返す人たちの中に、「内面が法外すぎて、それに相応しい表現形を見出すことができないので『出来合い』の型をやむなく採用している」人がいくたりか混じり込んでいる。誰が「それ」なのか、それを血眼で探し出すことが、あるいは平田演劇を鑑賞している観客たちが味わっているひりひりするようなサスペンスなのかも知れない。
 以上、平田オリザさんの演劇について私なりの勝手な印象を記した。
 と、ここまで読んで、「それでは想田監督の映画への解説になっていないのでは・・・」と不安になった方もおられると思うが、ご心配には及ばない。私は映画の話をずっとしていたのである。試みに、いま記した最後のパラグラフの「平田演劇」を「想田映画」に置き換えても、私の言いたいことは少しも変わらないことがわかるはずである。

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京都生まれ。思想家であり武道家。合気道道場・凱風館館長。神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、映画記号論、武道論。2007年、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第6回小林秀雄賞を受賞。『日本辺境論』(新潮新書)で新書大賞2010を受賞。他に『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』(角川文庫)、『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(文春文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『呪いの時代』(新潮社)、『街場の読書論』(太田出版)、『街場の文体論』(ミシマ社)など著書多数。