たいへんに面白かった。 何がどう面白かったのか、手持ちの映画批評の用語ではうまく表現できない。 そういう種類の経験だった。 この映画の「成功」(と言ってよいと思う)の理由は二つある。 一つは「観察映画」という独特のドキュメンタリーの方法を貫いた想田和弘監督のクリエーターとしての破格であり、 もう一つは素材に選ばれた平田オリザという世界的な戯曲家・演出家その人の破格である。 この二つの「破格」が出会うことで「ケミストリー」が生み出された。 二人がそれぞれのしかたで発信している、微細な歪音がぶつかりあい、周波数を増幅し、倍音をつくり出し、 ある種の「音楽」を作り出している。
「演劇」を過激かつ繊細にアップデートした平田オリザと青年団に、気鋭のドキュメンタリー映画作家は、いかに迫ったか?
克明に映し出される「演技と演出」の秘技、まさに「秘密は何もない」と言わんかのような、徹底してリアルでぶっきらぼうな、天才劇作家/演出家の日々。
だが騙されてはならない。彼は「虚実」と「演じること」の専門家なのだから。
そしてそんなことは想田和弘監督も百も承知である。
それゆえ本作は平田オリザの「現代口語演劇」VS想田和弘「観察映画」の様相を帯びる。
この丁々発止の闘いが、実にスリリングなのだ。
「高度に装われた自然さ」という点で、平田オリザ演劇と想田流ドキュメンタリーはよく似ている。それだけに……「観察映画」がカメラを向ける対象として、実はこれ、最も手強い相手だったのは? そんな深読みもまた楽しい、あっと言う間の(ウソじゃないよ!)5時間42分。
演劇の上演を見るのは無論おもしろいけれど、本当は稽古もとてもおもしろい。でも稽古は基本的に見世物ではないから、そのおもしろさをお客さんに渡すことがどうにも難しい。僕はそれを残念だと思ってる。
「演劇1」「演劇2」では、演劇のリハーサルの現場が見られる。演出で演技が変わることを目の当たりにできる。それを見てほしい。もっともこの映画には、それ以外にもたくさんの見所がある。でも演劇の作り手として、僕はまずその点を特に、みなさんに見てほしい。
想田さんはオリザさんを追いながら、「平田オリザ」という役をどこかで脱ぐんじゃないか、そのオン/オフスイッチはどこにあるのかを探している。偶然だろうが、寝息すらも逃さない方法に思わず吹き出してしまった。
その一方で、私たち劇団員と同じ視点を共有しているとも思った。つまり、演じるならどこまでも演じ続けて欲しいと。と言っても盲信ではなく、コロスの視点で英雄を見守るという感覚。「見る/見られる」の関係の中で、常に「演劇」は始まるというわけだ。
この映画を体験すると、玉ねぎの皮がはがれたり重なったりのような入れ子構造に身をゆだねながら、ぐんぐん引き込まれるおもしろさが味わえます。演劇は魔法のように見る者を虜にしますが、この映画も、没入する私たち観客の主観を一瞬にしてずらしたり、すり替えたりする、スリリングな旅。想田和弘監督のあらたな境地は娯楽としても成功です。
『演劇』、いつもの想田作品らしいタイトルだが、これワイズマンだったら『青年団』としたのかもしれない。乱暴にワイズマンを引き合いに出したが、両者の魅力には同じ秘密があると感じていたからだ。
自分だったら浅はかにも『平田オリザ』とタイトルしてしまいそうなこの作品は、想田さんの明晰さをもってしても隠しきれない被写体への愛情によって観察され、《平田オリザ=演劇》その秘密が完璧なる構成によって5時間42分一糸乱れず押し寄せ、オリザさんに対する渇望へと引き継がれてゆく。
「演劇」の夢と現実。『1』の理想が反転する『2』こそ観てほしい。助成金、政治、教育、芸術。5時間を超える物言わぬドキュメンタリーは、「情熱大陸」の30分では捨てられてしまう泥くさい現実をユーモアで描き出す。平田オリザのいびきとともに!
「演じる」という嘘にカメラを向けても被写体の自意識から完全なドキュメントにはならないと思っていたけど、収録技術などハードの進化と想田監督の観察映画の手法を用いてその壁を見事に乗越えるばかりではなく、演劇入門して、演技と演出について考え、最終的にはオリザさん主演の喜劇映画を観ているかのようだった。
想田監督のカメラは、たびたび、こまばアゴラ劇場の看板を映し出す。
ここに劇場がある。ここに演劇がある。
平田オリザという才能をもってしても、順風満帆とはいかない。困難がたくさんあるからこそ惹かれ続ける人が後を絶たないのかもしれない。どう受け止めるかは人それぞれだが、ここには「!」が満ち溢れている。そんな「演劇」をじっくりと観察し続けた監督の粘り強さに、脱帽する。
本当の自分なんてどこにもいない、 自分はつくり演じるもの。 役者、劇場、教育、政治、カメラ…すべてを巻き込む表現の疾走。 演劇や芸術に関わる人はもちろん、 自分を生きる、すべての人が観るべきドキュメンタリー。
(順不同・敬称略)
たいへんに面白かった。
何がどう面白かったのか、手持ちの映画批評の用語ではうまく表現できない。
そういう種類の経験だった。
この映画の「成功」(と言ってよいと思う)の理由は二つある。
一つは「観察映画」という独特のドキュメンタリーの方法を貫いた想田和弘監督のクリエーターとしての破格であり、
もう一つは素材に選ばれた平田オリザという世界的な戯曲家・演出家その人の破格である。
この二つの「破格」が出会うことで「ケミストリー」が生み出された。
二人がそれぞれのしかたで発信している、微細な歪音がぶつかりあい、周波数を増幅し、倍音をつくり出し、
ある種の「音楽」を作り出している。
「演劇」を過激かつ繊細にアップデートした平田オリザと青年団に、気鋭のドキュメンタリー映画作家は、いかに迫ったか?
克明に映し出される「演技と演出」の秘技、まさに「秘密は何もない」と言わんかのような、徹底してリアルでぶっきらぼうな、天才劇作家/演出家の日々。
だが騙されてはならない。彼は「虚実」と「演じること」の専門家なのだから。
そしてそんなことは想田和弘監督も百も承知である。
それゆえ本作は平田オリザの「現代口語演劇」VS想田和弘「観察映画」の様相を帯びる。
この丁々発止の闘いが、実にスリリングなのだ。
「高度に装われた自然さ」という点で、平田オリザ演劇と想田流ドキュメンタリーはよく似ている。それだけに……「観察映画」がカメラを向ける対象として、実はこれ、最も手強い相手だったのは? そんな深読みもまた楽しい、あっと言う間の(ウソじゃないよ!)5時間42分。
演劇の上演を見るのは無論おもしろいけれど、本当は稽古もとてもおもしろい。でも稽古は基本的に見世物ではないから、そのおもしろさをお客さんに渡すことがどうにも難しい。僕はそれを残念だと思ってる。
「演劇1」「演劇2」では、演劇のリハーサルの現場が見られる。演出で演技が変わることを目の当たりにできる。それを見てほしい。もっともこの映画には、それ以外にもたくさんの見所がある。でも演劇の作り手として、僕はまずその点を特に、みなさんに見てほしい。
想田さんはオリザさんを追いながら、「平田オリザ」という役をどこかで脱ぐんじゃないか、そのオン/オフスイッチはどこにあるのかを探している。偶然だろうが、寝息すらも逃さない方法に思わず吹き出してしまった。
その一方で、私たち劇団員と同じ視点を共有しているとも思った。つまり、演じるならどこまでも演じ続けて欲しいと。と言っても盲信ではなく、コロスの視点で英雄を見守るという感覚。「見る/見られる」の関係の中で、常に「演劇」は始まるというわけだ。
この映画を体験すると、玉ねぎの皮がはがれたり重なったりのような入れ子構造に身をゆだねながら、ぐんぐん引き込まれるおもしろさが味わえます。演劇は魔法のように見る者を虜にしますが、この映画も、没入する私たち観客の主観を一瞬にしてずらしたり、すり替えたりする、スリリングな旅。想田和弘監督のあらたな境地は娯楽としても成功です。
『演劇』、いつもの想田作品らしいタイトルだが、これワイズマンだったら『青年団』としたのかもしれない。乱暴にワイズマンを引き合いに出したが、両者の魅力には同じ秘密があると感じていたからだ。
自分だったら浅はかにも『平田オリザ』とタイトルしてしまいそうなこの作品は、想田さんの明晰さをもってしても隠しきれない被写体への愛情によって観察され、《平田オリザ=演劇》その秘密が完璧なる構成によって5時間42分一糸乱れず押し寄せ、オリザさんに対する渇望へと引き継がれてゆく。
「演劇」の夢と現実。『1』の理想が反転する『2』こそ観てほしい。助成金、政治、教育、芸術。5時間を超える物言わぬドキュメンタリーは、「情熱大陸」の30分では捨てられてしまう泥くさい現実をユーモアで描き出す。平田オリザのいびきとともに!
「演じる」という嘘にカメラを向けても被写体の自意識から完全なドキュメントにはならないと思っていたけど、収録技術などハードの進化と想田監督の観察映画の手法を用いてその壁を見事に乗越えるばかりではなく、演劇入門して、演技と演出について考え、最終的にはオリザさん主演の喜劇映画を観ているかのようだった。
想田監督のカメラは、たびたび、こまばアゴラ劇場の看板を映し出す。
ここに劇場がある。ここに演劇がある。
平田オリザという才能をもってしても、順風満帆とはいかない。困難がたくさんあるからこそ惹かれ続ける人が後を絶たないのかもしれない。どう受け止めるかは人それぞれだが、ここには「!」が満ち溢れている。そんな「演劇」をじっくりと観察し続けた監督の粘り強さに、脱帽する。
本当の自分なんてどこにもいない、
自分はつくり演じるもの。
役者、劇場、教育、政治、カメラ…すべてを巻き込む表現の疾走。
演劇や芸術に関わる人はもちろん、
自分を生きる、すべての人が観るべきドキュメンタリー。
(順不同・敬称略)